俳優 安田章大と憑依型。
ここ数日で、私の中で舞台「リボルバー」がむくむくと大きくなっている。
時間があれば関連する本を読み漁っている。
史実を知れば知るほどにおもしろい舞台だなぁと思う。
元々美術館にはよく行っていたし、毎月のように何かしら観劇に行くし、マハさんのアートノベルの大ファンでもあった。
「好きと好きがぶつかると気絶しそうになる」ということは間違いなしの舞台であることは大前提だけれど
タイトルなんてわからーんと思いながら、なんだかそれらしいタイトルにはなっているものの
読んでいるのはどこの書店にもあるような一般書だし、どれも一般人の趣味程度なもんで、超個人的意見満載の話。
満載というかそれのみです。
史実を踏まえて安田さんの演じるゴッホを見ると、表情により深みと意味合いが見えてくる。気がする。
原作にも出てこない沢山の史実や文献を読み漁り、作り上げたはず。(村上さんも通信でそんなようなことを仰ってたけど)
でなければあの顔にはなれないだろうし、初日では見えていなかったものも見えてきた気がした。
なぜそこでキレるのか、ここでキレるのと同じなのか。何を遠くに見ながらそう言っているのか。
時間が経てば薄れていくはずの記憶が、また復活してくる。そこにあった史実とパルコ劇場に蘇ったゴッホの表情とが重なって、より深みを増していく。
これまで安田さんの舞台を観劇するたびに、ずっと「やっぱり彼は憑依型だな〜」と思っていた。
憑依型とは。
今回実在の人物を演じられたのもあってか、初回観劇後になんだかとても気になってきた。
カメレオン俳優と同意だとか(個人的にはなんか違うと思っている)、いやいや憑依型なんてないんだわ、だとか色々な見解があった。
その役がすっと降りてきたような、その役の人物にしか見えなくなるような名演技をする役者のことをいうのだろう。
今までは安田さんもその1人だと思ってきたし、「憑依」はあくまで比喩表現だということもわかるし、そういう意味では確かに彼は憑依型俳優なんだと思う。
だけど、どこかなんか違うなと、あのゴッホを見てから思い始めた。
「憑依型」って、どこか天才気質というか、あまり意識せずともその役がのり移ってくるというか。
安田さんエピソードで登場する「急に曲が降りてきた!」のイメージに近い。
安田さんのゴッホを見ると、
自ら取り憑かれにいっている、というか、そういみ意味での「インストール」なのか、
知識や稽古など様々なゴッホを食べて食べて食べて、時には吐き戻しながらも、それでも食べて食べて食い尽くして、自らの血肉とし、内からゴッホになっていく。
史実に基づき、マハさんの想いに基づき、「ゴッホが何を思ったか」が基準で、「もし自分がゴッホだったらどう思うか」とかそんなレベルではない。
あの舞台にいるのがゴッホにしか見えない、少なくとも安田章大には見えないのは、あそこには安田章大としての感情は1ミリもなく、魂レベルでゴッホだからなんだと思う。
こういうことを比喩して、「憑依型俳優」と言うのだろうと思うけど、なんかそんな天才的なことではなくて。
「そこまで、指先に巡る血も精神も、内外全てを注ぎ込むことができる」、その能力は決して天才的なものではなく、彼のそこにかける想いと、それを実際に形にしていける行動力、努力の賜物なんだと思う。
(勿論、彼のアーティスティックなセンスもあると思うが)
「いや、だからそれを憑依型というのでは!」
と言われればそうなんだけど、、、、、、
日本語が難しいーーーーー
役者・安田章大を語るには圧倒的な語彙力の不足。私の言ってることを5割増しくらいに受け取ってほしい、、、、、、、、、
私は安田さん大好き人間なので、どんなに頑張ってもそのフィルターを100%通さずに見ることは難しいだろう。
でも、限りなく0%にして、観劇好き・アート好きとして見てみても、きっと同じように思う。
髭の植毛の話が出た時は、ロバート・デニーロか!と盛大にツッコんだけど。
でもそれも、外観的な要素はあくまで補完でしかないんだろうなぁ。
映画も大好きなので色々観るし、大好きな俳優さんも沢山いるけど、あそこまで精神レベルで
変わっていく俳優さんてなかなかいない。(主観)
期間中、彼はこの現代社会で生きづらくないだろうかと心配になってしまう。
私的初日〜私的楽日までの間はレギュラー番組なんかもみなくなっちゃうもんな。
本業(という言い方が正しいかはおいておく)がアイドルであると知っていても、なんだか違和感というか、「関ジャニ∞の安田章大」が「あれ?だれだっけ」みたいな。
(どちらの安田さんも余すとこなくだいすきです!!!!!!)
纏まらないので終わり(無責任!)