美しき火傷の痕。

あいも変わらず独断と偏見と私感をたっぷりに、足りなすぎる語彙力でお送りします。


一部ネタバレに繋がる部分もありますのでご自衛くださいね。












フィンセントとポールの関係性を、太陽とひまわりに例える場面がある。

フィンセントに「ひまわりのように、いつまでも太陽(=自分)を追いかけるのはやめろ」と言うポール。


フィンセントと離れ、タヒチでの時間を過ごし、結局、追いかけていたのは自分だと気が付く。


追いつけない程ずっとずっと先を行っていたにも関わらず、それに気付いてか気付かずか、永遠に誰も追いつけない場所へ行こうと自死を選ぶフィンセント。


どんなに追いかけても届かないと分かっていながら追いかけることをやめられない、そんな人生はもうごめんだと自死を選ぶポール。




マハさんはゴッホのことを「触れると火傷しそうな画家だ」と表しているが、安田さんが自身と同化させたあのフィンセントもまさにそれだった。



今までとは違う楽日前の感情。

高揚、焦燥、不安、感動、どれでもありどれでもないこの情感こそが火傷を負ったということであり

あのただならぬ感情起伏の激しさや、それを身で分かっていながらもどうにもできないフィンセントの葛藤する様は、対峙してしまえばこちらもどうにも処理し難い感情を抱えることになり、それをわかっていながらも心気の変を逃すまいと思わせ、焼かれるとわかっていながらも、また火傷すると知っていながらも、カーテンコールの最後の最後まで、1秒たりとも逃さぬようしっかりと見つめていたいと思わせる。

焼かれまいと目を逸らしても、その温度や匂い、気の流れの変化で追いかけてくる。


主演だからとかヤスダーだからだとか、そんなことは関係なしに、追わざるを得ない圧倒的な熱量と存在感を舞台上で放っていたことは間違いない。




君は太陽を追いかけるひまわりだ」と、「あのひまわりのタブローはフィンセント自身だ」と、ずっと誰もが思っていたが違かった。




フィンセントを追いかけ続けることをやめられないのはポールだった。

2人の関係性を研究する冴も、最後にはすっかりリボルバーの価値を変えたギローやJPもそれは同じだった。

ストーリー上では、太陽はフィンセントで、それ以外の登場人物がひまわりに見えた。



「触れると火傷しそうだ」と言わせた実在の画家フィンセント・ファン・ゴッホは、マハさんにとっての太陽でもあるのだろうか。それを追うマハさんも、いわばひまわりかもしれない。



そして、ストーリー上に存在したフィンセントも、それをすっかり同化させた安田章大も、観る者に火傷を負わせる太陽であり、ポールやその他の登場人物と同様、追いかけることをやめられない私はひまわりなんだと思う。




実在した人物を演ずるにあたり、安田さんが今までとは異なるアプローチをしたのは明白だった。

細かなことまではわからないけれど、史実を読むだとか、実際にタブローを観に行くだとか、それだけでも違うわけだ。



ポールをはじめとする「リボルバー」の登場人物にとっての太陽である劇中のフィンセント。

マハさんに火傷を負わせる太陽である実在の画家フィンセント・ファン・ゴッホ

リボルバー」の観客にとっての太陽である劇中のフィンセント。(一つ目のフィンセントの立ち位置と限りなく近い

リボルバー」の観客にとっての太陽である舞台俳優安田章大



これを全てやり切ったところ、これが安田さんの「実在の人物を演じる」ということにかけた真の凄みだったのだと思う。




そこに存在する物体・人として『あれは安田章大ではなくゴッホだった』と言わしめるだけではなく、「観客にとってのフィンセント」と「ポールやその他登場人物にとってのフィンセント」を同じところに位置付けきった。

(そう考えると、19世紀を俯瞰するように21世紀の3人を舞台上に居させた演出や、冴をいち日本人として19世紀と絡ませた演出にもくるものがある。)



それは設定としての立ち位置だけの話ではなく、心情的な部分においても言えることであり、更に、劇中のフィンセントとしても、それを演じた安田章大としても、太陽として多くの人に火傷を負わせ、それでも追いかけることをやめられないひまわりにさせきったのだと思う。




実在のフィンセント・ファン・ゴッホと彼の作品は、今後の私にとって特別なものとなった。

安田章大と同化したあの劇中のフィンセントには今後も想いを馳せるだろう。

これからも安田章大という人間からは目を逸らせないなと改めて思わされた。



安田章大というひとりの舞台俳優を通し、わたしはいくつもの素晴らしき太陽と出会い、美しき火傷の痕を沢山残されたのだ。



その痕に触れる度に、何なら、自ら痕に触れて、画家フィンセント・ファン・ゴッホや彼のタブロー、「リボルバー」のフィンセント、それを演じた安田章大を思い出す。

じりじりと痛みや悼みを思い出しながらも、それがまた心地よくて、その痕が何だか懐かしいようにも愛しいようにも思えて、そうして追いかけることをやめられないのだろう。







大阪公演まで、どうかどうか無事終えられますように。